京都

 先日、2日連続で予定の無い日があったので、京都に行ってきました。
 京都駅に降り立つと、ロータリーの周りなどに修学旅行生がちらほら見受けられ、外国人観光客と相まってかなりの混雑を生み出しています。京都劇場の前にも大量の修学旅行生が座り込んでいました。私ははっきり言って、彼らが好きではありません。せっかく初秋の清々しい日に京都へやってきたのに、邪魔されてはたまったものではありません。しかし修学旅行生を京都の1か所で発見すればそれはすなわち、京都全体隈なく修学旅行生たちが充満していることを示しています。案の定、私はその後行く先々で彼らを目撃することになるのです。


 1日目の目的地は祇王寺でした。苔庭で有名な北の外れの方の寺です。京都駅から電動キックボードで嵯峨の方向へ、経路を決めず行き当たりばったりに角を曲がって移動していると、太秦の大映通り商店街に辿り着きました。のどかな商店街です。セブンイレブンがありましたが、私はそのときふと、そのセブンイレブンに来たことがあるのを思い出しました。大学生の時にそういえば、一度この辺を自転車でうろうろしたことがありました。記憶はさらに鮮明になり、その日には雨が降っていて、このセブンイレブンで雨宿りをしたことまで思い出しました。ホイールが歪んだ中古の自転車で京都中を走り回っていた時代です。自動車社会である地方都市での暮らしに落ち着いた今、自転車で移動するという生活様式も、急な雨に遭遇して雨宿りをするという文化も、いつの間にか自分の人生から消え去ってしまっていました。久しぶりに訪れた京都で、そのことに気が付きました。


 そこからもう少し北西に行けば祇王寺に突き当たるだろうと見当をつけてキックボードに乗っていると、思いがけずいきなり景色が開け、広々とした山と川の姿が目の前に現れました。この美しい山は何だろうと一瞬知らない場所に迷い込んだ気になりましたが、よく見てみると、それは嵐山と渡月橋でした。嵐山に行ったことは何度もありますが、思いがけず嵐山に出くわしたことで息を呑みました。苔の世界へ一心不乱に向かうあまり京都有数の観光地である嵐山を思い浮かべもしなかった私は、意図せず場面が急展開し嵐山に遭遇したことで、かえって他の観光客の誰よりも嵐山の美しさに襲われたのです。
 祇王寺に到着すると、ここにもすでに大勢の修学旅行生が押しかけています。こんな北の端まで来ているのかと、うんざりしました。女子校の修学旅行の一団らしく、全員女子高生でした。たしかに祇王寺は尼寺ですが、こんなにたくさん尼がいてはたまったものではありません。狭い苔寺を歩き回りながら、大声で何かを叫んだりしています。苔を見るときぐらい静かにできないのでしょうか。女子高生軍団のけたたましいおしゃべりと、竹林の中に佇む静謐な古寺のしっとりした苔庭とが、あまりにも鮮明な不協和を生み出していて、かえって風情があるといってもいいほどです。そんな中、一匹の蝶が、藤袴の繊細な花弁に留まって蜜を吸っています。蝶という生き物は、およそ音というものを生み出しません。そしてあたかも、聴覚を刺激する力を捨て去った代償として手に入れたかのような、視覚に訴えかける強烈な鮮やかさを備えています。ひたすら視覚だけに迫るその美しさに意識が吸い寄せられたことで、私は何とか息を整えることができました。京都にふさわしく紫を基調とした、華やかでいながら落ち着いた印象の蝶です。静かに、視覚だけを貫く蝶の劇的な出現によって、タイミングよく女子高生たちの喧騒から匿われた私は、そこに京都の霊の存在を感じました。あるいは仏の深い慈悲を感じました。


 ホテルに泊まり、翌朝、5時30分頃に散歩に出かけました。油断していると通りに人が多くなってうるさくなるので、私は努めて早起きをし、誰もいない静かな街を独り占めしようと思ったのです。ましてや今は修学旅行シーズンですから、散歩中にうるさい修学旅行生などに出くわしたら風情が台無しです。なんとか早起きをして、寺町商店街から出発して烏丸方面へ細い道を歩いたのですが、古い建物と新しい建物が小気味よく融合していてとても洗練された街並みです。そんな気持ちの良い散歩をしていると、向こうの角を曲がって、ぞろぞろと行進する集団が突如現れました。そこで見た光景に私は我が目を疑いました。そうです、なんとそれは、学生服を着た修学旅行生の大群だったのです。
 私は一瞬、自分が目にしている光景を、現実のものと受け止めることができませんでした。彼らは一体、朝5時30分の京都の街中で勢揃いして何をしているのでしょうか。朝のお散歩でしょうか。いきなり角を曲がって現れた学生服の黒い塊は、その前日に思いがけず眼前にひろびろと開けたあの美しい秋の嵐山よりも、はるかに私を驚かせました。ちょうど、このすぐ近くには、本能寺があります。織田信長が家臣の明智光秀の奇襲を受けて無念の死を遂げたことはあまりにも有名な歴史ですが、朝5時30分に修学旅行生の行進に出くわした私は、信長が受けた奇襲と同じくらい、猛烈な不意打ちを受けたのです。これも何かの因果でしょうか。信長と同様、私も無念でした。その行列の長さからして、学年全員が集まっているはずですが、結局彼らの行進の目的はよく分かりませんでした。

 ところで現在、ジャニー喜多川がその生涯にわたって繰り広げた性的な児童虐待がもっぱら社会の糾弾の対象となっていますが、修学旅行も一種の児童虐待ではないでしょうか。つまり、子どもたちは、自分で決めた旅行先でもない場所に、仲が良いわけでもない同級生たちと一緒に、長期の日程で旅行することを事実上強制されている訳ですが、その反面で旅館やホテルや観光地は極めて効率の良い金儲けをしています。修学旅行需要だけで存続できているような施設もいくらかあるでしょう。あたかもご褒美を与えるような顔をしながら、自分の選択権を主張する力の無い子どもたちを大人たちの金儲けのために動員しているのが実態ではないでしょうか。そもそも学生服を着て集団で旅行するその姿自体、不気味で陰惨なものです。
 大人たちはもしかしたら、生徒たちが生涯残る大切な思い出を修学旅行を通じて心に刻み込んでいると思っているかもしれませんが、子どもたちは内心、苦痛を感じながら旅行に参加し、訳の分からないまま訳の分からない場所に連行されていると感じているかもしれません。虐待や搾取とは往々にして、やっている側の人間にはその認識すらないことが多いものです。人間が人間を支配する構造は、目に見えないことが多いからこそ厄介なのです。
 しかしもしかすると、ジャニーズの件や、もはや資本主義の構造に取り込まれてしまっている修学旅行というイベントの実態が示唆しているのは、人間社会というものはその根底に相当程度強力な支配や搾取の存在が無ければ、原動力を失い回転していくことができないということなのかもしれません。
 とにかく、修学旅行は廃止するか、はっきりとした自由参加制にすべきです。アメリカの学校では修学旅行に参加するのは生徒全体の2〜3割だといわれています。