ロンドン

 大学では一般的に、専門科目に加えて一定程度の教養科目の履修と単位取得が求められます。これは、文部科学省の定める「大学設置基準」が大学(専門職大学及び短期大学を除く)における教育課程の編成方針として、教養科目を設けることを強制はしないものの、「幅広く深い教養」を培うよう「適切に配慮しなければならない」と定めていること(19条2項)によるものだそうです。
 私が通っていた大学でもそのようなカリキュラムだったので、進級に必要な限度でそれなりにバラエティに富んだ講義を受講しましたが、あまり話の面白い先生がいなかったこともあり、それらの講義のテーマや内容はほとんど覚えていません。私の認知能力の特徴として、そもそも、話し言葉があまりすんなりと頭に入ってきません。
 体系が確立されていて基本書や主要判例を理解すればテストに十分対応できる法律科目とは違って、教養科目は講義の内容やテーマが不定型で、担当教授の独自の見解のようなものがテストにおける「正解」に直結しているため、講義に出席せずに単位を取るのは至難の業です。そのため、教養科目の講義には欠かさず出席していました。逆に、専門科目である法律科目の講義にはほとんど出席することはありませんでした(専門科目の中でも政治科目については教養科目の上記の特性と同じような特性があるため、1回も欠かすことなく出席していました)。その意味で、法学部生の本来あるべき姿から考えれば倒錯した通学実態だった訳ですが、しかし欠かさず出席したはずの教養科目の講義で述べられたことは、記憶の片隅にも存在しておらず、あの時間は一体何だったのだろうかといった感じです。たしか、「健康科学」という講義が、誰でも単位を取得できるいわゆる「楽勝科目」として有名で、それゆえにびっくりするほどの学生が講義室に押し寄せていました。その程度の記憶が辛うじて残っています。このような、大学の風俗という観点から見ればもっとも「不健全」な講義のタイトルが「健康科学」だというのはかなりの皮肉ですが、当時の私はそのことにも気が付かないほど、自分自身が効率よく単位を取得することに血眼になっていました。


 先日アデルの曲を聴いていたときにふと気になって検索してみたところ、それまでアメリカ出身だと思っていたアデルがロンドン出身であることを知ったのですが、それを起点に連想が働き、イギリスで資本主義が誕生した頃の歴史を扱った講義を大学で受講したことがあるのを思い出しました。しかし、講義のタイトルも担当教員の名前も全く思い出せません。その講義が伝えようとしたテーマや仮説のようなものが結局何だったのかなどということはもちろん思い出せません。それでいて、そこには興味深い何かがあったような気がするという感覚が漠然とあります。それはたとえば高速道路沿いに建っている建物の記憶に似ています。運転席の車窓を通して一瞬視界の端を横切っただけで、どの街で見たのか思い出せないものの、なんとなく怪しげで雰囲気のある建物があったような気がする、一度探し出して行ってみなければ、といったような。  

 自宅のクローゼットを漁ってみたところ、「イギリス近代史講義」(川北稔著)という新書を発見し、それが川北稔氏の授業であったことを思い出しました。これをきっかけに私は、イギリス近代史に関する本をいくつか読んだのですが、これが極めて面白いテーマであることを再発見しました。

 イギリスでは16世紀頃から農地囲い込みや修道院解散の影響で浮浪者が流入するなどして、ロンドンという途方もなく巨大な都市が形成され始めます。徐々に巨大化したロンドンでは匿名性を背景に、着飾ることで自らのステータスが高いかのように偽装することができたため、衣服や理美容の需要が旺盛になり、もともと貴族と平民の身分秩序がフランスなどと比べて曖昧・流動的であったという背景と相まって、国民全体を対象としたマス・マーケットが誕生します(ロンドンで17世紀半ばに誕生したコーヒーハウスでは、様々な階層に属する人々が身分の上下を意識せずに、コーヒーやチョコレートドリンクを飲みながら情報交換をしたと言われています。)。そしてこれが資本主義的な生産方式につながっていきます(アジアから輸入していた綿織物を国内生産し、いわゆる輸入代替を目指したことが綿織物工業の飛躍的発展につながっていきます)。私が重要だと感じた点は、資本主義の誕生にとっては技術革新それ自体よりも、大量生産された商品を吸収し得る需要ないし生活様式の存在が、重要な要素であったということです。

 資本主義の誕生を促した要因に関しては、プロテスタントの勤勉な精神がその原動力となったという説や、ヨーロッパの人口増加が封建的な生産体制で支えられるレベルを超えてしまったという経済事情が背景にあったという説などがあります(農地囲い込みでロンドンに浮浪者が大量流入したというイギリスの歴史的事実はこの説を裏付けるものともいえそうです)。宗教的価値観や人口動態も大きな要素だっただろうと思いますが、紅茶に砂糖を入れて喜んで飲んでいたロンドンの人たちの様子を思い浮かべたとき、資本主義が生まれた時代の雰囲気としては、海外から新たにもたらされた商品や文化に大きな刺激を受けて、これをもっと取り入れた華やかな生活がしたいと考える、もっと人間的で無邪気な欲望があったのではないかという気もします。

 プロテスタンティズム説に関連して、このような考え方もあるようです。すなわち、絶対王政はルネサンス的な華美を追い求め、官僚機構と常備軍という極めて高価な装置を必要とし、国家財政を逼迫させた。その皺寄せとして重税にあえいだ国民たちは、プロテスタント的な禁欲的で勤勉な精神の下に集結し始める。イギリスにおいて、フランスより早く市民革命が成功したことと、イギリスにおいて世界初の産業革命が勃発したことは、いずれもこのようなプロテスタント的な抵抗と結集の精神がイギリスにおいてより優れていたことの結果である。これは極めてダイナミックで興味深い精神史だと思います。

 資本主義といえば、ウォーラーステインの世界システム論も有名ですが、この理論の主旨は、資本主義の発展レベルを各国の一国史的な観点から見るべきではなく、全体を一つのシステムとして捉えるべきというものです。つまり、政治システムや教育システムが洗練されている国が経済的先進国になるというわけではなく、ある国の経済的発展は、他国の経済的発展を阻害して後進国化したことの果実であると。たしかに、明治政府の殖産興業についても、官営八幡製鐵所は、日清戦争で勝利して清から得られた賠償金によって何とか資金をファイナンスできたというギリギリの状況で開業したというのが実情であったようですし(そもそも当時の日本政府の中枢は清に勝てると思っていませんでした)、清が多額の賠償金で困窮したことにつけ込んで、市場価格からかけ離れた安い価格で鉄鉱石を供給させたともいわれています。その意味で、大西洋を舞台とした奴隷貿易と比較すれば小規模かもしれませんが、日本における初期の殖産興業にも、清を含めたアジアの国々からの収奪で成り立ち、ふとした拍子で実現した、という面があるともいえそうです。しかしそんな日本も中国の工業力に圧倒されるようになって久しく、円がどんどん安くなっているという現状を見ると、時代は確実に動いているという気がします。

 最後に、私は今回、資本主義が誕生したダイナミズムの面白さを「再発見」したわけですが、このプロセスそれ自体にも、実はダイナミックな精神史が隠されているのではないか、と思っています。
 私は、イギリス近代史について、大学で一度触れたものの、その後完全に忘れ去り、アデルの曲を聴くという趣味の時間における何気ない連想から、再度これを探究し、極めて興味深い論説の数々に触れたわけですが、私がいま考えているのは、このような楽しい体験は、一度忘れ去ったからこそ生まれたものなのではないかという仮説です。というよりも、この体験は、忘れ去ったと表面的な意識の上では感じられつつも、潜在的な意識のどこかで熟成されていたことによって生まれた成果なのではないかということです。私が気が付いていなかっただけで、この方面に関する「研究」が、無意識下において、大学生だったあの時代から、脈々と継続していたのではないか、ということです。