霊的な隣人

 駅西本町にある当事務所の建物は、かつては我々家族が生活する住居でした。現在はそれぞれが他のマンションに移り、もっぱら事務所として使用していますが、私の生活実態としては、半ばこの事務所に住んでいるようなものです。

 我々が駅西本町に引っ越してきた当時(20年ほど前)、北隣にはすでに4階建て鉄筋コンクリート造のビルが存在しており、予備校生向けの学生寮として使用されていました。なるほど、近くに駅西予備校があります。ここに住む予備校生たちは、要するに浪人生です(親元から離れて暮らす現役の高校生たる予備校生という可能性も無いことはないでしょうが、その可能性は低いでしょう。)。私は中学生ながらに、集団生活をしないと勉強ができないそのメンタリティを変えないとどうにもならないのではないかと冷徹に観察していたのですが、予備校生らは予備校生らなりに必死なようで、うちの家族がチェーンソーで薪ストーブ用の丸太を切り分けていたとき、モーター音がうるさいと言って一丁前に怒鳴り込んできたりもしました。窓から彼女を建物の中に侵入させている男子寮生もいました(おそらく部外者の立入りが禁止されていたため秘密裏に出入りさせていたのでしょう。)。学生寮の窓は、我が住居の窓に相対して近接しているので私はその現場を目撃してしまいました。当時中学生で多感な時期にあった私は、奔放な性の衝動が、学生寮の規律を破り浪人生としての本分を放棄して猛進する、ちょっとしたスペクタクルを目の前で見せつけられ、迂闊にも少し興奮してしまいました。受験戦争にはあえなく敗北してしまった彼らですが、私に、大胆に生きることの大切さを教えてくれたのです。
 その後、おそらく少子化などの影響で経営が立ち行かなくなったのでしょう、このビルは担保不動産競売にかけられました(その当時大学生だった私はわざわざ競売資料を裁判所に見に行きましたが、アスベストが建材として使用されている可能性が高いとの記載を見つけ、解体工事がされると厄介だなと懸念した記憶があります。)。不動産登記簿を確認したところ、2014年3月4日、抵当権者である北国銀行の申立てによる担保不動産競売の開始決定がされていますが、その直後、同月25日には金沢市によって滞納処分による差押えも行われています。租税の滞納もあったようで、相当苦しい経営状態であったことがわかります。

 これを競落したのは、カオサン合同会社という宿泊施設の運営会社でした。改装工事を経て生まれ変わったビルは、学生寮当時の内部構造をそのまま流用した、風呂トイレ共同の宿泊施設で、いっときは観光客らで相当賑わっていました。それまでは白かった外壁が、チョコレート色に塗装されたのもこの時です(個人的に趣味の良い塗装とは思えませんが)。当時は毎日のように、スーツケースのローラーがアスファルトの地面を転がる音が町に響いていました。しかし、2020年初頭に、コロナウイルスの大打撃を受けることになります。このゲストハウスは客層のほどんどを外国人観光客が占めていたため、宿泊業の中でもその打撃はとりわけ顕著であったようで、需要は文字どおり消失しました。それでもしばらく形だけの営業を続けていましたが、2021年に入ってついに閉業します。閉業後、ビルに関わる人間たちが消え去ったことで当事務所周辺は静まり返り、私はその静寂を謳歌するかのように、真夜中に散歩するのを習慣とするようになりました。まるで、長年にわたり様々な経済活動のために酷使されてきた鉄筋コンクリートビルが、熟睡のうちに疲れを癒しているかのような空気がそこにはありました。そしてそれは、休むことなく懸命に働いてきたものだけが生み出すことのできる深い寝息でした。私はその心地良い寝息に耳を澄ませるようにして真夜中の駅西本町をゆったりと散歩しました。夜空に浮かぶ星が意外に多いことや、月の光が意外なほど明るく怪しいことに気が付いたのはこの頃です。

 しかし、彼の安眠も長くは続きませんでした。2022年半ば、今度は共同住宅に仕立てられ(といっても、ゲストハウスの頃の内装とほとんど変わっていないと思われます)、外国人労働者(と思しき者たち)が集団生活を始めました(風呂トイレキッチン共同という学生寮以来の内部構造に変更が加えられていないため、一般の借り手は付かないのでしょう。)。彼らによって、鉄筋コンクリートビルは、予備校の学生寮時代よりも、ゲストハウス時代よりも、はるかに大きな喧騒に包まれるようになりました。さらに、彼らによって当事務所敷地内の柿の木の枝が叩き折られ、柿の実が盗まれるという被害も発生しました(警察署に告訴状を提出し一応受理されています。)。彼らの国籍ははっきりとはわかりませんが、その一様に浅黒い容貌から推察するにインド人でしょう。毎日飽きもせずにカレーを作って食べていることからもそのように推認されます(強い推認力があります)。鉄筋コンクリート4階建てビルとしては、深い眠りから唐突に叩き起こされたうえ、これまでにもまして苛烈で貪欲で、そして「珍妙な」経済活動に従事させられるハメになって辟易しているといったところでしょう。毎日漂ってくるカレーの匂いにもうんざりしているかもしれません。彼の深い溜め息が聞こえてきそうです。彼が眠りから目覚めたのと同時に、私も真夜中の散歩をする気が全く起こらなくなりました。

 彼はこれまで、少子化、コロナウイルス、外国人労働者の大量流入(しかも、もはや中国人やベトナム人すら日本経済を相手にしていないことを示唆するインド人の大量流入現象)など、日本経済の停滞や衰退を示すテーマを炙り出す、興味深い語り手であり続けてきました。その語り口は気怠く、どこか厭世的ですが、事実だけを述べる真摯な語り手です。というより、私の目には彼が、人間に酷使されることを嫌う凛とした性格の持ち主で、自らを酷使しようとする人間たちを次々と経済的悲劇に陥れて冷笑に付す、霊的な力を持った存在にすら見えます。資本の拡大を目指して頑張る人間たちの盛衰を横目に見ながら堅牢に存在し続けている建物と20年以上の月日を共有すると、そのような幻想すら湧いてきます。   
もっとも、リアリスティックに考察すれば、そもそも予備校生の共同生活という極めて限定された目的のために、巨大な鉄筋コンクリート造のビルを建設するというビジネスの発想自体に、無理があるように思われます。競売後のビルの継承者たちは皆、その無理難題を引き受けて悪戦苦闘しているということなのでしょう。そして、金沢という街には、駅近くにあるこの鉄筋コンクリートビルをいっそのこと解体して、新たな建築物を建築し新たな形で収益を生み出すのに必要な資本を有する主体も、そのようなことを可能にする需要も存在しないのです。
 こういった寮生活用の建物は、大規模な資本を持った上場会社や学校法人などが、構成員の福利厚生のために付随的に運営するのが基本で、それをメインの事業として運営するというのは若干不可解な経済活動と言えます。しかし、登記簿の記載を見る限り、これを新築して保有していたのは河合塾あるいは駅西予備校ですらなく、これらとは直接の関係を持たない個人商店のような株式会社で、このビルの新築のために北国銀行から1億3500万円もの借入れを行なっており、どうやらメインの事業として予備校生向け学生寮の運営を行なっていたことが窺えるのです。商業登記簿の方もチェックしましたが、上記の借入れの直前に上記の株式会社が成立しているところを見ると、上記株式会社は、この巨大な借入れに伴うリスクに備えて(万一返済ができなくなったときに被害を会社財産の限度にとどめるために)法人成りしたこと、逆に言えば、それまでは巨額の借入れを伴う事業は行なっておらず、法人成りによってメリットを受けるほどの事業所得すら生み出していなかったことが示唆されています。つまり、この個人商店的株式会社の代表者は、それまでさほど大規模な事業を行なったことがなく、かつ予備校とは直接の関係を持っていなかったにもかかわらず、リターンがそれほど望めるとは思えないこの予備校生向け学生寮の運営を自身にとって初めての大規模事業として開始したものと思われるのです。このような鉄筋コンクリートビルの誕生に関するいささか奇異な経緯は、その新築が登記簿によれば昭和62年4月7日であることに鑑みると、バブル経済の熱狂が一つの要素になっている可能性が高いです。そうすると、私の隣で大きな寝息を立てていたのは、バブル時代の遺構だったということになるのでしょうか。
 であるとすれば、彼は、バブル期以降の日本経済の悲運を物語るためだけに生まれてきた存在であるかのように思われてきます。令和の時代に突入し、彼は今後一体どのような運命を辿るのでしょうか。